米国見聞録

旅行・留学・仕事を通じたアメリカ滞在の記録です。番外編で韓国見聞録があります。

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5、ネバダ州ラスベガス(1998)

ラスベガスを移住先に

 1998年1月5日。白人、黒人、ヒスパニック系、アジア系と多人種がごった返し、強烈なエネルギーを放つロサンゼルス国際空港から南東に向けてアメリカンン・ウェスト・エアーラインで約一時間。

 見渡す限り、太陽に焼き尽くされた砂漠に飽きてきたころ、ラスベガスは突如開けてくる。整然と区画された街並み。スプリンクラーで管理されたゴルフ場のあざやかなグリーン。きれいな住宅街のオレンジ色の瓦屋根。カラフルな大規模ホテル・カジノの数々。

 無味乾燥した砂漠とは、対照的な人工都市を眼下にし、人々は驚きの声を上げる。ラスベガスのマッキャラン国際空港に到着すると今度は派手なスロット・マシーンが、さっそくカモの相手をせんと待ち構えている。アメリカのピュ-リタニズムでは、引き受けてもらえなかった「飲む・打つ・買う」といった人間の営みをカミング・アウトし、更に特化してしまった街。

Las Vegas Travel Guide





 私がラスベガスを訪れるのは、実は今回で三回目になる。過去に二回はいずれも短期滞在だったが、今回はアメリカに永住しようという企みだ。私は、三十才になっていた。大学を卒業して、数年間、お世話になったシンクタンクを辞めた。

 コミュニティ・カレッジに留学し、旅行代理店で働いて、住権を取得し、アメリカに移住する計画を持っていた。ラスベガスは、巨大カジノホテルの建設ラッシュが起こり、好景気が続いていた。日本人旅行客数も増加しており、その仕事に携わる現地のツアーガイドが不足していたのだ。

 ベンジャミン・バグジー(虫けら)・シーゲルというニューヨークのユダヤ系マフィアが、砂漠に大規模カジノ・ホテル建設を始める。昼間はホテルのプール・サイドでゆっくりと肌を焼き、夜は食事をしながら豪華なショーを楽しみ、ギャンブルで遊ぶというアイディアを盛り込んだのだ。フラミンゴ・ホテルというのだが、これがラスベガスの都市イメージを決定づけた。

 開館当初のホテルを楽しむ人々の写真を見たことがあるが、現在と変わらない完成されたスタイルがそこにはあった。日本の闇市とは大きくかけ離れた特殊な世界が、同時期にラスベガスでは花開き始めていたのだ。ラスベガスは、バグジー・シーゲルのリゾート・コンセプトをその後、半世紀近く継承し再拡大しながら現在に至っている。

 
ラスベガスの現在

 人口が1998年、当時、100万人強。天候は、砂漠の天気は常に晴天である。それも雲一つ無い青空であることが多い。真夏の直射日光は身に危険を感じてしまうほどきつい。実際、脱水症状を起こしやすく、夏ラスベガス市民は一日に大量の水を摂取しなければならない。

 1920年代の大恐慌時代にニューディール政策として水力発電用のフーバーダムが建設された。ダムで堰きとめられてできた世界最大の人造湖レイク・ミードが、ラスベガスの喉を潤している。また、砂漠なので当然、空気はカラカラに乾燥している。夜洗った洗濯物を室内に干しておくと、翌朝にはパリパリに乾いている。これは節約になって、嬉しいが、車のバッテリー液が一夏で蒸発してしまうのには閉口してしまった。

 このような厳しい自然の中で、ラスベガスはどのような道を辿ってきたのだろうか。ラスベガスは実はスペイン語で「草原」の意味であり、まったく不毛な土地ではなかった。インディアンが狩猟生活を営んでいた痕跡が、レッドロック・キャニオン自然公園に残されている。現在もラスベガスには野生の動物、野ウサギやシカ、リスなどが生息しているのである。
 
 西部開拓時代に入植してきたのは、ビルガム・ヤング率いるモルモン教徒の一行である。彼らは、宗教弾圧を逃れてきたのが、ラスベガスでも再度迫害を受け、本拠地をラスベガスの北にあるユタ州ソルトレイク市に移す。現在でもラスベガスには、モルモン教徒が多く住んでおり、弁護士、会計士、医者、コンピューター・プログラマー等の知的な仕事に多くの人が就いている。
 
 さて、カジノなのだが、実は先のフーバーダムの建設には多くの中国人が徴用されており、彼らがやっていたギャンブルをラスベガスにマフィアが移したのが始まりだそうだ。そして、ラスベガスすなわちカジノ式の全国的な知名度を持つようになるのは、第二次世界大戦後まもなくのことだ。

 そして、現在(2001年)なのだが、ラスベガスの人口は100万人強にまで膨れ上がった。つい二十年前までは本当にド田舎だったのが、過去10年間で一挙に人口倍増しているのである。爆発的に都市が急拡大した理由は、なんと言っても1990年初頭から相次いだ巨大カジノ・ホテルの建設ラッシュだ。

 観光業というのは人海戦術を必要とするものだ。そして、大量の人間が職を求めてこの街にやってきた。彼らの多くはこう言う。「俺がやっているのはエブリバデイズ・ジョブ(誰でもできる仕事)だが、収入への助けは大きい」

 カジノのディーラーの平均年収は、三万ドル台(1ドル百円換算で三百万円)。また、ホテルのレストランでウェイターをして働いていた友人の月収は約三千ドルあったし、ベルマンの友人も月収は約三千ドルあった。チップで大きく稼げるのだ。

アメリカは物価が安いためこれくらいで充分やっていけるのである。そして、ラスベガスはアメリカの中でも特に物価が安いのである。特にマイホーム所有へ道が大きく開かれていた。一千万円台でで立派な住宅が購入できるため、郊外にはわんさか住宅が立ち並んでいる。ラスベガスでは、多くのアメリカ人にとって余裕のある生活が可能である。
 
 確かに自然は過酷だが、エアコンが完備された住宅という繭の中に入ると、砂漠の街といえども快適に過ごせてしまうものだ。付け加えて、カジノは24時間営業だし、付属するレストランもそうである。また、フィットネスクラブもそうだし、スーパーマーケットもそうである。

 スーパーマーケットでは、新鮮なシーフードも手に入るし、日本食も大概この街で調達できる。さらに、市営バスを除いてマストラがないので、どこに行くのも車だ。多少の渋滞はあるが、道は広いし一直線で街中で迷うこともない。すっかり、砂漠の中での生活を忘れさせるほどだ。
 
 また、ラスベガスの都市イメージとして、非常に人工的で不自然なものを想像する人は多いが、いずれにしても、現代都市は極端に人工的に管理されたものなのだ。砂漠の街ということで水不足を極端にイメージさせる訳だが、例えば、ロサンゼルスにも雨はほとんど降らない。

 ロサンゼルスも水を灌漑施設で引っ張ってきている。都市の規模からしてロサンゼルスの方がよっぽど、水に関しては心配なのだが、多くの人はそう考えない。ラスベガスは元来ロサンゼルスの悪所として発達した街だったのだが、現在ではそのロサンゼルスから逆に住民が治安の良さを求めてラスベガスに移ってきている。

 

ラスベガス公式ウェブサイト http://www.visitlasvegas.jp/

 


 

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6、ベジタリアン・フードの威力(1998-2001ラスベガス)

 
低所得者用アパートへ引っ越す

 旅行の仕事は、時間が不規則だったし、ラスベガスの複雑な運行管理があり、私はストレスから、夜に眠れなくなっていた。そして、いつも体が疲れており、眠気が残っていた。そのため、まず、とにかく、事務所へ、10分以内の場所に住むことが必要だった。近くへ住めば住むほど、睡眠時間を確保できる。一度、朝早くホテルへ向う途中、ガソリンスタンドで給油した際に、キーをつけたままドアをロックしたために、窓ガラスを蹴破って、ロック解除したことがあった。時間がなく、仕方なかった。

 幸運にも、事務所の周りは、低所得者用のアパートが立ち並んでいた。住民の大多数がスペイン語を話すヒスパニックや黒人で、残りは少数の白人たちで、アジア系の人間は、ほとんど住んでいなかった。ほぼ、メキシコのような雰囲気だった。私一人が住むだけならば、とことんボロいアパートでも良い。ワンルーム・マンションの賃貸料は、一月に500ドル前後で、どこも大差は無い。しかし、猫付きとなると、そうは行かない。

 まず、ペット飼いが可能か。そして、猫が、外に出たときに外敵から身を隠すための低木などが管理されていることが望ましかった。ほとんどのアパートの庭は、芝生のみの管理で殺伐としている。かなりの時間をかけてチェックして回った結果、あるアパートが、芝や低木、大木、そして、パームツリーが整備されており、申し分なかった。また、古ぼけてはいたが、小さなプールやスパ温泉も付いていた。

 そして、会社まで10分かからない。家賃は、450ドルで、ペット可だ。ここに決めた。引越しは、当時バンドのメンバーだった韓国系のM君とドラマー君に手伝ってもらった。彼らとは、コミュニティカレッジで知り合った友人を介して知り合いになった。主に、教会で演奏するためのバンドだった。

 

アパート住人が、いきなり逮捕


 
 当日、荷物を積んだ車でアパートのゲートをくぐると、駐車場にパトカー止まっており、精悍な顔をした男性のアフリカン・アメリカンが、警官二人に手錠をかけられていた。彼は、私の方を見たが、大して悪びれた様子も無く、また、深い絶望感も感じられなかったが、引越しを手伝ってくれたM君とドラマー君は、私が、こんな治安の悪いアパートに住んで、殺されないことを願うよ、と心配していた。しかし、私は、大丈夫だよと彼らに言うしかなかった。

 大体、逮捕くらいで、大げさに言うな。家賃の安さと、猫のための住環境、そして事務所への利便性を考えれば、ここに住むしかなかったのだ。また、私は、高校生のときに習った少林寺拳法は黒帯だ。合気道も社会人になって、二年ほどやった。また、極力時間を作って、スポーツ・クラブで、筋トレを積むようにしている。

 ここはアメリカだ。スーパーマーケットやコンビニで、ホールドアップという可能性もありえる。そのためには、普段から体を鍛えて、運動神経を鍛えておかねばならない。私の場合、痩せているのため、弱く見える。そのため、ターゲットになりやすいので、なおさら、トレーニング等々は重要なのだ。M君やドラマー君も二人とも、アジア系という事で、差別や攻撃を受けないように、自己防衛手段として、普段から、ボディ・ビルディングのトレーニングを積み、プロティンを飲んだりしていた。

 彼らの筋骨隆々の頼もしい体格で、荷物の運搬作業は、実にスムーズに行われた。ただ、中古のマットレスを運んでもらっている途中、二人が、「このベッドは、ひどく汚れている。こんなの使ってたら病気になる」と言われて、頭に来た。まったく、モノを大事にしない奴らだ。しかし、普段は、コットンのカバーを巻いて使っていたので分からなかったのだが、良く見ればシミだらけで本当に、汚らしかったので、捨ててもらった。

 

ギリギリの生活資金


 頭に来た理由は、彼らの発言にではなく、私が新しいベッドを買えない情けない状況にあったからだ。学校の授業料や、生活費、そして、中古の車が、頻繁に故障して、修理費がかさみ旅行のバイトで得た金では、ギリギリだった。それに加えて、ムチ打ちの交通被害を食らっており、私は常にイライラしていた。

 また、ラスベガスの驚異的な夏の暑さも、まいっていた。新しいベッドを買う余裕は無かったので、24時間営業の量販店のウォルマートで、20ドルでキャンプ用のエアー・マットを購入して使った。しかし、このベッドは、ニャンコ先生が爪を立てて、空気漏れがしてしまい、すぐに使えなくなってしまった。

 この引越しの後、お礼に、食事を奢ったのだろうか、多分二人が、私の懐を気にして、遠慮してくれた記憶が残っている。ちなみに、日系の友人の引越しを手伝った彼の礼は、キッチンから出てきた古いインスタント・ラーメンだった。また、アフリカン・アメリカンと白人のカップルの引越しを手伝ったときは、引越しパーティで美味しい料理にありつけた記憶がある。

 アパートでは、私は、結構自炊していた。私は、意外にも料理が好きなのだ。アメリカは、食費が特に安いのだが、切り詰めていた。一番安価な食材を探した結果、ニンジン、ジャガイモ、パセリ、鶏肉となった。これで、よくチキンスープを作った。食材を丸ごとお湯に入れて、加熱するだけだ。あとは、お米を炊いてできあがり。

 

ベジタリアン食の効果


 ただ、ラスベガスのホテルは、客寄せに安価な料理をレストランで提供しており、これも良く食べに行っていた。例えば、ステーキ&エッグスという料理が3ドル食べれてしまう。また、バフェという食べ放題のレストランが、10ドル前後で食べれてしまう。カロリーの高い料理を相当食べており、身体がいつも疲れていた。しかし、この当時、もし、ベジタリアン食の威力を知っていれば、私の生活はまったく違ったものになっていたに違いない。
 
 カロリーの高いものを食べ過ぎた結果、身体に疲労感が色濃く漂っていた。疲れているので、また肉を食べてスタミナをつけて、という悪循環。肉食へのスタミナ信仰を盲目的に信じていた。この時、断食の効果を知っていれば、体調を整えることができた。まさに、後悔先に立たずである。
 
 現在では、生野菜は、酵素が含まれており、これが体に良いことが分かっている。なるべく加熱しない方が良いようだ。生野菜なら、加熱によるビタミンの損失も防ぐことができる。そして、肉の代わりに、植物性のたんぱく質を主に大豆から取る。こうすれば、体の酸化を防ぐことができ、疲労を取り除くことができる。

 野菜だけで、力が出るのかと疑問視されてる方もいると思うが、1983年のロサンゼルス・オリンピック陸上金メダルのカール・ルイスや、テニスのナブラ・チロワなどのスポーツが選手は、完全菜食主義者である。野菜のパワーというのは、本当に計り知れないものある。


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7、アメリカ滞在と護身術(1998-2001ラスベガス)

頭痛

 

 ラスベガスはトラブルが多く、会社で観光客のクレーム処理をしていた私はストレスの塊と化していた。また、仕事中に激しい頭痛があった。病院では、ストレス障害と診断された。私は旅行代理店を辞めて、日本へアンケート・リサーチをしている会社に移った。


ブルース・ジャムセッション


 一方で、私は、ブルースバンドのリーダー、に頼んで、飛び入りでギターを弾かせてほしいと頼んでみた。すると意外にも、じゃあ、ライブで一曲弾いてみろとなり、私は、ギターをかついでハウス・オブ・ブルース(HOUSE OF BLUES)の入っているマンダレイベイ・カジノホテルへ通い始めた。

 本場アメリカで、しかもエンターテイメントの本場ラスベガスでギターを弾く。考えただけでも、緊張する。日本のライブハウスで何度かギターを弾いたことはあるが、今回はバンドのレベルがまったく違う。よく飛び入りのチャンスを与えてくれたものだと今でも思う。

 飛び入りも回を重ねるごとに、徐々に緊張も解けてくる。また、24時間営業のブルース・バーでのジャム・セッションにも参加して演奏した。ハーレー・ダビッドソンにに革ジャンスタイルの客が集まるワイルドな小屋だ。しかし、ジャム・セッションは誰でも参加が可能であり、地元の音楽通やカジノで演奏しているプロミュージシャンが演奏している。
 
 大体、演奏している場所は、バーなので、また、音楽をやった後に、疲れを取るという形で、私もお酒をかなり飲むようになっていた。24時間のバーでは、友人も増え、彼らの多くは、私よりも年配という事もあり、お酒を飲ましてもらう機会が増えた。   


護身術が基本

 

 
護身術 クラヴマガ



 ところで、日本で、人からアメリカへ行く際には、空手か何か武道をやっておいた方が良いのかと聞かれることがある。それはもう、当たり前でしょう、相手は銃を持っている可能性があって、こちらは手ぶらなんですから、と私は答えている。前述のように、私も、高校のクラブで少林寺を稽古し、社会人になって合気道も二年やった。時間を作って、筋トレも続けている。

 しかし、それでもピストル強盗は防ぎようがない。どうしてもというなら、護身術のクラブマガか功朗法で、ピストル対応の護身術を身につけるしかないと思う。私は、単に運が良かっただけで、強盗に遭っていないが、一度、二日酔いの朝に、アパートの近所のアンちゃんと口ケンカになり、彼の手に小型のナイフが握られていたことがあった。そんなものしまえよ、で事なきを得たが、あの時は冷や汗が出た。

 こんな事もあり、私は一時期、ポケットには、財布を二つ持っていた。ひとつは、ピストル強盗に差し出す分だ。使わなくなったカードを入れてカモフラージュし、現金も普通に持ち歩く分くらい、例えば、60ドル位は入れておく。こうしておけば、ホールドアップされても、運転免許証やカードまで取られることがない。再発行はめんどくさいものだ。

 ただし、普通アメリカ人は、財布に免許証を入れているので、お前、財布に免許証が入ってないじゃないかと、突っ込まれる可能性はある。かつてのルームメイトが、やはり確かレストランでピストル強盗に遭遇している。彼は、剣道二段だったが、恐らく、強盗の顔を見て判断したのか、財布を出すことを拒否している。

 それで何も無かったというのだから、こういう剛の者も中にはいる。コンビニやレストラン強盗に遭った場合、普通は、強盗の顔を見ないように財布を渡す人が多いそうだ。これは、強盗が顔を見られるのを嫌がるためで、そのことに気を利かせて財布を渡しているのである。

 これらの、自己防衛について、究極のハウツー本が出版されている。私が読んでいたのは、柘植久慶先生のサバイバル本だ。アメリカに旅行・留学・移住する、いずれも人も、一度目を通すことを強くお勧めしたい。



8、テキサス州サンアントニオ(2005)

サンアントニオへ

 9.11のテロから4年後、私はアメリカの友人を訪ねて、テキサス州のサンアントニオを訪れた。サンアントニオは、水郷再生の町として有名だが、一方、背後には広大な空軍基地が控えている。四日間の滞在中、ついに私は、私以外のアジア人を見ることが無かった。こんなアメリカの都市は初めてだった。街の中心地には、有名な「アラモの砦」があり、多くの観光客で賑わっている。

 街中の観光は、再生された水郷・リバーサイドとアラモの砦の二つが大きな目玉だが、サンアントニオの街は、ほどよくコンパクトに出来ており、一日あれば、二つとも歩いて十分に観光できる。気候もよく、街も美しく、人もフレンドリーで、私が、今までアメリカで訪れた街の中では、ベストではないかと思う。知り合いの粋な計らいで、ジャズクラブでのパーティーに参加させてもらった。  

サンアントニオ公式ウェブサイト(英語) http://www.visitsanantonio.com/index.aspx

ワイナリーツアーヘ 

 また郊外のワイナリーのツアーにも連れて行ってもらった。メンバーは、お酒の好きな人が集まっていたようだ。弁護士、判事、TVディレクター、元アメリカ海軍隊員、保険代理店のオーナー、建設会社の社長夫妻、MBAの学生、カフェの店員さんなどのグループでワイナリーに出かけた。ここまで、高学歴で、かつ社会の上層に座するグループにまぎれたのは初めてだった。ただ、どういう訳か、疲れている顔をした人が多かった。多分、飲みすぎで胃腸が疲れているのだ。しかし、みんなワインを飲みまくり、楽しいひと時を過ごしたのだった。ただ、私は禁酒中だったので、ほとんど飲まなかった。

 また、ラスベガスで知り合いになったブルース・ミュージシャン,
Willie J Laws Jr.さんhttp://www.youtube.com/watch?v=lSiVbHaUqYIにも会った。ラスベガスの彼のステージに何度か飛び入りをさせてもらった事がある。今回は、彼に、新作CDを録音中のスタジオを案内してもらった。彼は、もう音楽のみに集中する生活になったと語っていた。後日、その新作を取り寄せて聴いたが、すばらしいサウンドに仕上がっており、やはり流石だと唸らされた。

San Antonio Travel





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番外編・韓国見聞録

初の海外一人旅

 

 私が、初めて韓国に行ったのは、1989年で今(2012年)から20年以上のも昔の話になった。光陰矢の如し。当時の韓国は、盧 泰愚(ノ・テイウ)政権で、まだ、厳しい軍事政権下にあった。87 年には、あの大韓観光空爆破事件という悲劇が起こったが、翌年の88年のソウル・オリンピックには成功し、また、70年代から始まっていた漢江(ハンガン)の奇跡と呼ばれる高度成長期を経て、多くの人々が、豊かさを享受しはじめていた。

 韓国旅行は、二浪時代に河合塾予備校、現代国語講師の竹国友康先生に推薦してもらっていた。北海道でスキーをするくらいのお金、5万円くらいあったら韓国にも行けるから、国際感覚を養おうよ、ということだった。私は、共鳴し、大学の春休みを利用して、長距離バスで大阪から下関へ。そして、下関から出航している関釜フェリーを利用して玄界灘を越えた。

 ちなみに、竹国先生は、韓国関係の本(※)を三冊出版されており、韓国の専門家でもある。また、先生とは、去年25年ぶりに再会し、梅田の阪急ホテルの喫茶店で、紅茶を御馳走になり、お互いの近況と韓国について話し、楽しいひと時を送った。また、一冊購入した先生の本にサインをもらった。サインの上には、「夢」と先生は書かれた。

 (※)参考:『ある日韓歴史の旅 鎮海(チネ)の桜』(朝日選書622 朝日新聞社、1999年3月刊)、『韓国温泉物語―日朝沐浴文化の交流をたどって』(岩波書店、発売日: 2004/3/16刊)、『ハモの旅、メンタイの夢――日韓さかな交流史 』(岩波書店)

 私は、旅行の直前まで、JR新大阪駅のカレー屋でアルバイトをして、約1週間の旅程に、2倍の10万円の旅費を用意した。飛行機を利用せずに、海路を選択したのは、ゆったりと旅情を楽しみたかったらだ。また、フェリーは、学割が効いたので、片道6900円という低料金も魅力だった。現在では、高速フェリーが出て3時間で行けるが、当時は、私の乗ったフェリーでも、夜には釜山沖に着くので、一晩停泊して、税関が朝に開くのを待つという、のんびりした旅だった。ただ、半日感情の強い国なので、心中は穏やかではなかった。旅行というよりも「冒険」だった。
  


さっそく、釜山で睡眠薬強盗に 


  船の中で知り合った九州大学の医学生と一緒に釜山デビュー。地図を持って、街中をウロウロしていたところを、スーツを着たサラリーマン風の二人に流暢な日本語で声をかけられた。彼らは、会社が創立記念日でお休み。そこで、これから日韓親善のためにも飲みに行きましょうと誘われた。友人と相談したのだが、彼らの身なりもキチンとしている、大丈夫だろうと考えて飲みに行った。

 しかし、飲みに行った刺身屋で焼酎に睡眠薬を混ぜられて、私と友人は昏睡させられてしまった。昏睡する直前に、首と太ももの付け根を手で押さえられた。恐らく軍隊で習ったのだろう。ぞっとして、笑ってごまかしながら、 相手の手を払いのけたが、どうも、そこからの記憶がない。約一時間して目覚めると財布の中身が抜かれていた。友人は、まだ昏睡中だった。起こしてみると、彼の財布からも金は消えていた。二人合わせて5万円ほど失った。

 しかし、私は街中でスリに会ってはマズイと考え、スニーカーの中敷の下にある程度金を隠していた。運よく、この金は無事だったので、店の支払はすませた。ただ、医学生の体調が悪かった。ホテルに戻るため、介抱していた医学生をタクシーに乗せた瞬間、うっ、俺って孤軍無援での兵士みたいでカッコいいなどと瞬間的に思ったりもした。この期に及んで、自分にも酔っていたのだから、仕方がない。しかし、酒に睡眠薬入れて動脈を押さえるなど、言語道断である。これは、小さな戦争だ。また、店ごとグルかもしれなかった。しかし、帰りのタクシーのおじさんは人柄が良く、韓国も捨てたものではないなと、これまた、すぐ思ったりもするのだった。



 犯人は、当時30才くらいだったから、現在(2012年)で、50才くらいか。二人ともがっしりした体系。主犯格の男は、色白で眼がつり上がったサラリーマンタイプ。もうひとりは、本当かどうかは知らないが、柔道の選手で国体で結構いいところまで行ったと言っていた。主犯格の顔は、もう忘れたが、柔道の方は特徴のある顔だったので、今でもよく覚えている。

 
 この事件では、やはり、反日感情の深さを思い知らされた。ただ、外国で地図をひろげて歩いたり、親切に話しかけてくる人を信用してはいけないのは、海外旅行の初歩の初歩、基本中の基本なのだが、それが分かっていなかった。本当に情けない。私たちは、甘い日本の大学生だった。

一方、インド帰りは、ガールフレンドをゲット



 その後、どうも胃の調子も悪く、妙な脱力感があった。お金を失ったので、宿泊料の高いホテルをキャンセルした。また、ソウル行きの旅費も失った。そこで、宿泊料の安いドミトリータイプの愛隣ユースホステルへ移った。 そのユースは丘の上にあり、教会も併設されていたように思う。素晴らしいユースだった。私は、まだ、韓国人の多くがキリスト教を信仰していることを知らなかった。

ユースで、知り合った日本の大学生たちと情報交換をすると、韓国で睡眠薬強盗に遭っている日本人学生が多いという話だった。私は、もう釜山の韓国人は、怖いのと、嫌になったのとで、食事にだけ外に出てあとはベッドでゴロゴロするようになった。

 一方、ユースには、インドから一人旅してきた猛者もおり、彼なんかは韓国は別段、どうということもない様子だった。彼に言わせると、我々二人がドミトリーに入ってきたとき、猜疑心の塊のような目をしていたのだそうだ。

 「あ、もしかして君らも、睡眠薬強盗やられたの?しかし、日韓交流で、これからの若い世代に睡眠薬やるのは、良くないと思うんだよな。だってさ、これからの日韓交流の芽を摘んでいるようなものじゃん」

 「インドから帰ってきて、こっちでは、何も被害にあっていないんですか」

 「うん、僕は、アーミージャケットを着ていたからか、バスに乗っていた時にご老人から、ものすごい剣幕で怒られた。おそらく、日本の軍国主義を老人は問題にしていたと思うんだよね。でも、俺は、韓国語ができないので、どうしようもなかった。それよりも、街でロングヘアーの美人女子大生と知り合いになって、デートしてるんだ。ここに写真があるよ」

 「え~、すごい美人じゃないですか」

 また、ユースには、天理大学の朝鮮語専攻の日本人学生がいて、彼に通訳を頼んで警察に被害届を出しに行った。しかし、警官には、そんな小さいことで被害届を出しに来ないでくれ、ケンチャナヨみたいな事を言われたように思う。そんなこんなで、結局、一度目の旅行では、釜山のみを見て、ソウルには行かずに帰国となった。




二度目でソウルに到着

 
 しかし、悔しいので、態勢を整えて、今度は夏休みの後半を利用してソウルまで行ってきた。前半は、長野県でレタス栽培のバイトやって旅費を貯めた。このバイトはひたすら、箱詰めのレタスをトラックに運ぶという、体力的にきつい仕事だったが、コレくらいやって鍛えておかないと韓国では太刀打ちできない。バイトを終了して、再び、プサンにフェリーで行き、そこから、確か高速バスに乗ってソウルへ向かった。 ソウルでは、ヨクサン(駅三)ユース・ホステルに宿泊。地下鉄駅のすぐ近くにあり、新しく清潔で料金も安く、すばらしいユースだった。

 ただ、今度は、朝のソウルを散歩中に話しかけられたオッサンに、言葉がよく分からないので適当にネー(はい)と答えたら、突然、羽交い絞めにされて路地裏に引っ張って行かれた。もう一人、近寄ってきて、相手は二人となった。しかし、こっちも頭に来て振り払って、少し離れたところで、I don`t knowと怒鳴ったら、向こうも呆気に取られたのか、後を追ってくることは無かった。

 それは、ともかく、当時はまだ貧しさの片鱗が、至る所に残っていた。人の良さそうな白いチョゴリを着たおばあさんが、地下鉄駅の駅の階段に腰掛けて、小銭を恵んでもらっていた。従軍慰安婦だったのかもしれないと思った。ソウルで知り合いになった大学生は、韓国の福祉はまだまだですと嘆いていた。

 

 その後一度も訪韓していない。しかし、去年から韓国語を勉強し始めた。一応、初歩くらいまではやったのだが、ちょっと時間が空くともうすぐにハングルを忘れてしまう。今、2012年で私は45才なのだが、やはり記憶力が低下している。しかし、大体、観光地では日本語が通じるので、私の勉強も、ま、いいかと思っている。しかし、おそらく、私が再度、韓国を訪れることはないだろう。日本に滞在している韓国人とコミュニケーションを取りたいと思っている。



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