米国見聞録

旅行・留学・仕事を通じたアメリカ滞在の記録です。番外編で韓国見聞録があります。

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はじめに

アメリカは銃社会です。基本的に君子危うきに近寄らずですが、諸々の事情で行かなければならない場合は、護身術をおすすめします。
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1、横断旅行・サンディエゴ語学留学編(1990)

サンディエゴで語学留学

 1990年2月。当時,私は関西大学の3回生だった。友人の間でアメリカ旅行一人旅が流行っており、私もアメリカ横断に出かけた。当時は、ブッシュ・パパの時代で、日米の交流も盛んだったが、私の英語は未熟だったし、アメリカは銃の危険もあるので、冒険に近い旅だった。旅行の直前まで、大阪の伊丹空港で、航空貨物の荷卸のアルバイトをした。このバイトは体力的にキツイ仕事だったが、時給が良く半年で約50万円ほど貯まった。また、腕の力こぶは大きくなった。アメリカは、マッチョが信奉されている国である。また、治安上、旅行中に何があるかも分からない。体を鍛えておくことが必要だった。ちなみに私は、大阪府立箕面高校で少林寺拳法部に所属し、初段を取得いていた。

 旅の前に、大阪の池田市のアップル英会話学校に通って、イギリス人女性とアメリカ人男性から英語会話を習った。この学校は、他の英会話学校と比べて、格段に授業料が安かった。授業の内容も充実しており、寒い冬の中をスクーターで約5キロを走っ通った。女性の英語教師は、彼女は、地下鉄でスーツを着たサラリーマンがスポーツ新聞のHな欄を読んでいるのが、信じられないと言っていた。なぜと聞かれたが、うまく答えられなかった。

 また、男性教師は元パイロットで、ロサンゼルスの出身だった。私が、アメリカの旅行を計画していると、ロスの治安の悪い場所などについて教えてくれ、さらに、実家の住所まで教えてくれて、もし、近くまで行くなら訪ねたらいいよと、フレンドリーだった。

 コリアン・エアーに往復9万円の格安航空券で搭乗した。ソウル経由だった。ロサンゼルスのパスポート・コントロールを通過し、ゲートを出た待合広場には、南カリフォルニアの明るいサンシャインが差し込んでいた。広場には、体格の良い、髪が黒く肌の浅黒いヒスパニック系の人々が、派手なアロハのシャツや、革ジャンを着て、大声で話し合っている。失礼ながら、まるで、野獣の群れだ。エネルギーが渦巻いている。

 ハリウッド映画や刑事ドラマに出てくるドラッグディーラー達といった感じで、圧倒された。当時、私が見ていた特捜刑事マイアミ・バイスや刑事ハンターの世界である。ヒスパニック系の人たちの他には、黒人やアジア系の人が多く、白人の姿はあまり見られない。これが、カリフォルニア南部だった。多分、大学生だと思われる日本人が、両替をしている。彼の動作は機敏だった。隙を見せない動きを、アピールしているように見えた。



 私も、ついにアメリカに来た。2週間ほど、サンディエゴで、語学留学し、その後、アメリカ大陸を横断する予定だ。再び、ロサンゼルスからホームステイ先のサンディエゴに飛行機で移動した。

San Diego Travel Video









 
 ホームステイを体験


 サンディエゴ国際空港から、指定されたアムトラックの駅へ。しかし、約束していたはずの語学学校からの出迎えが来ていなかった。外は、夕暮れに包まれて寂しくなってきている。私は、だんだん、不安になってきた。そこで、ホームステイ先に直接電話をかけて、車で迎えに来てもらった。なんとか、英語が通じた。彼女は、学校からの迎えが来なかったことを詫びながら、まず、夕食にマクドナルドに連れて行ってくれた。

 私は、ここでハンバーガーとフライドポテトを食べた。動物というのは、腹が満たされると落ち着くものだ。ホースステイ・マザーは、ステイする学生のポイントを良く押さえていたと思う。彼女が運転する車は、ニッサンの古い車で、助手席の足元には、10円玉ほど穴が開いた。車は、ハイウェイを走っているので、アスファルトの地面が流れて見える。彼女は、エンジンは整備しているから大丈夫だと言っていた。

 到着した郊外の家は、立派なものだった。ご主人は、アメリカ海軍に所属し、ハワイの基地に単身赴任していた。写真を見せてもらったが、やはり体格が良く、髪の毛を短く刈り込んでいる。精悍な顔つきをしていた。サンディエゴにはアメリカ海軍の基地があり、その家族が多く住んでいるのだった。
 
 この家庭には、先にホームステイしている日本人がいた。彼は、海軍のオヤジさんが帰宅した際に、息子のジョニーとともに冬の朝のプールを泳がされていた。このオヤジは、運よく私の滞在中にサンディエゴに戻ってこなかった。戻ってくれば、私も冬のプールを泳がざるを得なかっただろう。そのオヤジと私も一度、電話で話したが、偉そうぶった様子はなく、逆に腰が低い。私も最上級の丁寧英語で対応したが、彼も「私も、あなたと話ができて光栄です」などと、丁寧な言葉遣いだったのが印象的だった。

 また、この家庭には、カナダ人の大工さんも、部屋を借りて一緒に住んでいた。私は、この家にホームステイして、サンディエゴ大学付属の語学学校に約2週間ほど通った。クラスの生徒が世界各国から集まっているのは、国際的で興奮した。先生の英語は聞き取りやすく、理解は進んだ。また、学校からの夜のツアーで、国境の街、メキシコのティワナへ行った。サンディエゴは、メキシコに国境に面しているので、すぐに行ける。暗くてよく見えなかったのだが、やはり貧困の町としての雰囲気は伝わってきた。

 一方で、ラ・ホヤという海の綺麗な観光地にも学校のツアーで行った。青い海に白いカモメがたくさん飛んでおり、なんとも景色の良い場所だった。ツアーの帰りに、バンの中で80年代後半にヒットしたTOTOのバラード曲、"I will be over you"が流れて、街のイメージと良くマッチしていた。80年代にTotoにどっぷり浸かっていた私にとって、南カリフォルニアは、憧れの街だった。

 
San diego down town.com(日本語)http://www.sandiegotown.com/

 


 




2、横断旅行・サンフランシスコ編(1990)

アメリカ大陸横断一人旅へ


 2週間におよぶ、サンディエゴでの準備期間が終わった。いよいよ、これから、アメリカ大陸横断の旅に出る。目的地は、ニューヨークで、最後には、ロサンゼルスまで戻ってくる。移動手段として、アムトラック長距離鉄道の乗り放題のパスを日本で購入していた。

 サンフランシスコは、まだ、すごく寒いというホスト・マザーの貴重なアドバイスをもらって、登山用の丈夫なダウンジャケットも購入した。これは、本当にありがたいアドバイスだった。まず、サンディエゴから、アムトラック鉄道を利用して、サンフランシスコへ向う。一晩、電車の中で過ごして、朝方、郊外の駅に到着。当時は、そこから、バスに乗り換えて、サンフランシスコの中心へ向った。
 
 向う途中で、やはり、旅行に来ていた日本人男性の学生の二人連れと、知り合いになる。彼らは、私の買ったダウンジャケットが、アムトラック鉄道員のユニフォームに、似ていたことから、彼らは、私を日系のアムトラック従業員だと思っていた。ちゃいますよー、日本人ですよ、で打ち解けてすぐに友達になった。

 

元ポリスがガイドの射撃ツアー

 

冬の寒い朝のサンフランシスコだったが、初めて見るサンフランシスコは、やはりお洒落な感じがした。「地球の歩き方」を読んで、決めていたホテルに向う。本当は、事前に電話で予約しておくべきだったのだが、まだ、英語の実力がなく、行き当たりばったりにしていた。運良く、空室があったので、チェックインできた。

A San Francisco Minute



 サンフランシスコでは、安くて美味しいと評判のステーキ店に行ったり、チャイナタウンをブラブラして、チャーハンを食べたりした。また、友人達と射撃のツアーに参加した。ガイドは、中国系アメリカ人で、元サンフランシスコ市警のポリスだった。年齢は、30歳の中ごろだったと思う。

 ジャッキーチェンにも似たハンサムで、中国系アメリカ人の映画俳優でも、おかしくないような人だった。淡いピンクのポロシャツを着て、サングラスをかけて、白いバンを運転していた。彼によると、サンフランシスコの警官は、名誉の戦死をやりたがるのだそうだ。カーチェイスなんかも、無茶をやって、死ぬ人が多いのだ。彼は、命がいくつあっても足りないと考えて、警察を辞めた。とにかく、クレイジーだと、彼は何度も強調していた。

 「ガイドの仕事は、給料は多少減ったが、それでも、年収が500万円くらいになる。今では、家族サービスに時間を取れるし、死の危険に晒さらされることもない」

 そして、彼は、コレが僕の奥さんだよと、彼のポケットから革の財布を取り出して、奥さんの写真を見せてくれた。白人の奥さんで、ニッコリと微笑んでいた。アジア系の男性が白人女性と結婚することは、彼の自慢だった思う。

 射撃のやり方を、彼は丁寧に教えてくれた。銃を両手で優しく握って、絞り込むように撃つ。彼の模範射撃は、やはり様になっていた。同行した女の子からは、カッコいい!と歓声が上がる。彼女は、アメリカ生まれで、その後、日本で育った。アメリカの市民権が取れるかどうか、弁護士に相談に行くためにサンフランシスコを訪れていたのだ。

 彼女は、英語が上手く、羨ましかった。ツアーの後、彼女の先輩で、アメリカ人男性と結婚した日本人女性とも会った。彼女の旦那は、旅行関係の仕事をしているという話だった。私は、ロック・ソウル歌手のBoz Scaggsの経営しているブルー・ライト・カフェhttp://www.diddit.com/restaurant-fzrxbk/san-francisco-bay-area-singles-bars/blue-light-cafe/に行きたいのだが、知っていますかと訊いた。しかし、彼女はそれを知らなかったのが残念だった。当時のScaggs氏は、Other Roadという新譜を出して世界ツアーなども行っていたが、数年前に音楽業界に嫌気がさし、地元のミュージシャンを育てるべくリズム&ブルース主体のカフェをオープンしていたのだ。次回訪れる機会があれば、必ず行きたいカフェだ。

 

サンフランシスコ公式ウェブサイト(日本語) http://www.sf-japan.or.jp/

3、横断旅行・カンザス~サンタフェ編(1990)

カンザスを大学教授に案内してもらう

 サンフランシスコに数日滞在後、再び、アムトラック鉄道のフリーパス・チケットを使用。今度は、一昼夜かけて、今度は、中西部のカンサスへと向った。電車の中で白人のお爺さんに、 アメリカに来た理由は何かと問われた。何だか尋問みたいで一瞬ギクッとした。しかし、日本と戦った経験のある爺さん世代から、こんな質問が出てくるだろうと予想はしてあった。それに、答えは簡単で観光だ。

「シー・サイトイングです」

一瞬間が空いた。

「サイト・シーイングだろ」

「あ、イヤー、そうです」

 Sight seeingがSee Sightingになって間違えて口を出て、赤面した。そんな電車の旅だった。ちなみにカンサスは、カンサスと発音しても通用しない、キャンザスと言うのだった。

 カンサスを訪れたのは、カンサスというバンドが好きで、一度当地を見てみたいという動機からだった。

Kansas City, Missouri




 アムトラックの中では、カンサス大学の都市計画の先生とも知り合いになり、町を案内してもらった。ハルマークというグリーティング・カードで有名な会社の本社や、市場を見せてくれた。

 私のバンドのカンサスが好きだから来たという理由が、現地の人々には受けた。 大学教授は、本当に親切な人だった。 しかし、カンザスは、一日だけの滞在で、次は、サンタフェを目指さなければならなかった。

 長距離バスのグレイハウンドにストライキが起こり、バスの利用者がアムトラック鉄道に流れてきていた。そのため、チケットを押さえるのが困難になっており、私は、行く先々で長時間の電車待ちを余儀なくされた。

 カンサスの待合室にあるコンビニで、サンドイッチを買っていると、黒人のおっちゃんに、俺の分も買ってくれとせがまれた。もう、何日も食べていないのだと言う。

 じゃあ、仕方ないから、買ってあげようとすると、おっちゃんの家族も現れて、私らの分も買ってくれとなった。 ちょっと、待て、そんなに大勢には、買えないなと悩んでいると、白人の若いビジネスマンが、彼らに、買ってやることなんか無いと断ってくれた。

 その後、その若いビジネスマンの家に招待されて、家の中を見せてもらったりした。結婚したばかりの彼の奥さんと合流して、レストランへ食事に行って、私は、またハンバーガーを食べた。

 800万円くらいで、一戸建ての新築の家を購入しており、羨ましく思った。彼は、クレジット・カード会社で働いていたのだが、生活にゆとりがあるように見えた。

 当時の日本は、土地バブルで、サラリーマンが一生働いても、家は買えない時代だった。私は、彼の家を見て、アメリカに将来的に移住する気持ちを固めた。

 近くの高校で学んでいた日本人留学生も、家に来て、少し話をした。そして、少林寺拳法の型を少し教えてあげたのだった。

 

カンザス・シティ公式ウェブサイト(英語) http://www.visitkc.com/index.aspx


 

サンタフェで癒される

 そして、次にサンタフェへと、移動。 サンタフは、ネイティブ・アメリカンの文化が色濃く残っている。土壁の家が多く、こんなエリアがアメリカに存在するのかと思えるほどだった。エコロジカルな性格を持った特徴的な街だといえよう。個人的には、こういう街が一番、好きなのかもしれない。

 

サンタフェ公式ウェブサイト(英語) http://www.santafenm.gov/

 


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4、横断旅行・エルパソ~メンフィス~ワシントン~ニューヨーク~ロサンゼルス編(1990)

エルパソ行きのバス~フロントガラスに銃弾

 ユースホステルに宿泊して、今度はテキサス州のエルパソに移動。 グレイハウンド長距離バスを利用したのだが、フロントガラスには、銃弾の跡があった。 バスは、管理職員が運転していたのだが、運行に抗議した従業員が抗議して、撃ったのだ。従業員は、依然ストライキを続行しており、また、撃ってくる可能性もあったが、我々のバスは、問題なく出発できたが、エアコンが故障して冬なのに暖房が入らず冷房が入っている。ただでさえ寒いのに、冷房入れてどうするんだ。一晩中、寒さと戦いながらのバスの旅だった。

 エルパソの近くには銀、銅、原油など鉱産資源が豊富で銅精錬所や石油精製工場の立地が相次いでいる。また食品加工などのほか、近年はハイテク産業も集積しているが、街は、あまり大きくなく、見所もあまりない。そこで、リオ・グランデ川を越えて、メキシコのシウダー・ファレスへと足を運んだ。 ここでもやはり、米墨間の格差の激しさが印象に残っている。

 



ダラスで故ケネディ大統領を偲ぶ

 再度、グレイハウンドを利用して、今度はダラスへ。 ダラスは、ケネディ元大統領が暗殺された街だ。ここでは、高層ビルの屋上に上がり、町の全体を俯瞰してみたり、町中にあるケネディ・メモリアルへ行ったりした。白いスーツを着たブラザーがメモリアルを写真撮影していた。ケネディは公民権運動を大統領在任中に推し進めている。

 ホテルに泊まる金をセーブするためにバス停に長時間滞留した。ホームレス風のブラザーが多く、私がイスに座っていると、このイスは俺の席だと文句を言ってくる人もいた。

 


 



メンフィスで北欧系女子と食事~周囲の視線が突き刺さる

 次いで、テネシー州メンフィスへ。ここでは、公民権運動の中心的役割を担っていたマーティン・ルーサー・キング・ジュニアが凶弾に倒れている。


Your Travel Guide: Musical Memphis Tour




 このメンフィスでは、駅でベルギー人の女の子と知り合いになり、プレスリーのグレースランドへ遊びに行った。 ピンク・キャデラックの前で、お互いの写真を撮ったり、フランス人の女の子も二人合流して、ランチを食べに行った。

 しかし、アジア人が白人女子3人と食べている図は、20年前の南部ではまだ、タブーだったようだ。
店の人も、食事していた客も、こちらの方へ厳しい視線を向けていた。彼女たちは、食事をしながら、英語でしゃべりまくる。こっちは、ぜんぜん会話についていくことが出来なかった。

ヒッチハイクでヤバイ目に

 一日、宿泊して今度は、ワシントンDCへ移動するため向うため、明け方、まだ暗いうちに、鉄道駅までヒッチハイクをした。 しかし、ドライバーを、よく見ると下半身丸出しで運転していた。

一挙に押し寄せる恐怖感。
 
 信号が赤になり車が止まったので、ここで降りると言ってドアを開けて降りようとした。しかし、暗かったので、バックパックのストラップが車のギアに引っかかっていたのが見えなかった。

 えらく荷物が重くなっているな、なんで、外へ出ないんだと思って、よく見てみると、、ストラップがギアに引っかかっている。う、こいつ、俺が車から降りられないように、わざとギアに引っかけたんじゃ、ないだろうな。

 体は、もう外に出ている。ストラップを外そうとして、もう一度車内に入ったところを攻撃されては、かなわない。銃だって出てくる可能性があるかもしれない。

 そう考えると、とにかく引っ張れとなり、思いっきり力任せに引っ張った。当時、私は、旅行の直前まで、航空貨物運搬の仕事をしており、ときには100kgを越す冷凍マグロをカーゴから下ろして整理していたりもしていたので、腕力があったのだ。

 すると、ギアが、やや曲がってしまったように見えた。今度は、ドライバーが慌てはじめた。

 「まってくれ。ギアに引っかかってるんだ。いま、外すから。力を入れないで。Take it easy」

 そして、ようやくストラップが外れた。

 「オッケー。サンキュー。バイバイ」

 私は、ドライバーがハイウェイに戻っていくのを確認して、その場所を離れた。 朝から、変な奴に会っちゃったなぁ。やはり、アメリカは病んでいるのだろうか。

 ヒッチハイクには、本当に用心しなければならない。多くの州でヒッチハイクは法律違反となっている。サンディエゴの語学学校でも、ヒッチハイクだけは絶対にしてくれるなと、最初に注意があったのだが、すっかり、忘れていた。



ワシントンDCでホワイトハウスの警備を憂う


 再び、アムトラックで首都ワシントンDCへ。ここは、鉄道駅とバスの駅が離れており、その間を警官がガイドしてくれた。物取りや強盗が出るので、用心してとのことだった。ここで、数名の日本人旅行者と知り合いになり、行動を共にするようになった。

 ワシントンでは、やはり、ホワイトハウス前を観光した。一般人が、ホワイトハウスの近くを通れるので、大統領のセキュリティは大丈夫なのかと考えたりもした。

スミソニアン博物館には、地下鉄の利用ができて、移動が本当に楽な場所だ。

Travel Guide - Washington, DC








ニューヨークの街は、映画タクシードライバーのイメージそのまま

 さて、いよいよ、グレイハウンドで、ニューヨークへ。やはり私の頭の中には、アメリカ、イコール、ニューヨークのような イメージがあった。バスから摩天楼が見えてくると、乗客から歓声が起こった。 ハーレムの荒涼としたエリアを抜けて、ダウンタウンへ入る。 不思議なのだが、懐かしい感情が沸いてくる。 映画タクシー・ドライバーで見たニューヨークのイメージそのままの風景が再現されている。



New York City Travel Guide








 ニューヨークでは、38丁目のYMCAに宿泊。 安宿だが、セキュリティがしっかりしているし、一階にはカフェもある。向かい側に、安くて美味しい中華のお店があり重宝した。ここで中華弁当を買って、YMCAの部屋で日本人旅行者たちと一緒に話をしながら食べたりして楽しかった。

 ウォール街へ行ったり、セントラル・パークへ行ったり、チャイナタウンへ行ったり、エンパイヤ・ステートビルに上がって、街を俯瞰したり最高だった。

 また、ハーレムにも出向いて、目抜き通りを歩いてみた。本当にアフリカ系アメリカンしかいない。まさに、ブラック・キャピタルである。ここで、記念品として、Tシャツを購入。次回はアポロ劇場のジャム・セッションにギターで参加してみたいなぁ。



ロサンゼルスの衝撃的ホームレス・ストリート

 最後に、三泊四日で、アムトラックを利用して、ロサンゼルスへ。 アムトラックも、一貫してエアコンが故障しており、冬なのに冷房しており、大変だった。 ニューヨークから帰国すば良いものを、航空運賃をケチったため、ロサンゼルスまで戻ることに。

 ロサンゼルスは、ユニオン駅から少し離れた場所の道路両脇に、ホームレスの寝床が100メートルもあり、衝撃的だった。 ロサンゼルスにも影の部分はある。

 また、ハリウッドでは、ユニバーサル・スタジオ観光したが、その安っぽさに感動は無かった。 小学生だったら、楽しめたと思うのだが。

Los Angeles Travel Guide





 




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5、ネバダ州ラスベガス(1998)

ラスベガスを移住先に

 1998年1月5日。白人、黒人、ヒスパニック系、アジア系と多人種がごった返し、強烈なエネルギーを放つロサンゼルス国際空港から南東に向けてアメリカンン・ウェスト・エアーラインで約一時間。

 見渡す限り、太陽に焼き尽くされた砂漠に飽きてきたころ、ラスベガスは突如開けてくる。整然と区画された街並み。スプリンクラーで管理されたゴルフ場のあざやかなグリーン。きれいな住宅街のオレンジ色の瓦屋根。カラフルな大規模ホテル・カジノの数々。

 無味乾燥した砂漠とは、対照的な人工都市を眼下にし、人々は驚きの声を上げる。ラスベガスのマッキャラン国際空港に到着すると今度は派手なスロット・マシーンが、さっそくカモの相手をせんと待ち構えている。アメリカのピュ-リタニズムでは、引き受けてもらえなかった「飲む・打つ・買う」といった人間の営みをカミング・アウトし、更に特化してしまった街。

Las Vegas Travel Guide





 私がラスベガスを訪れるのは、実は今回で三回目になる。過去に二回はいずれも短期滞在だったが、今回はアメリカに永住しようという企みだ。私は、三十才になっていた。大学を卒業して、数年間、お世話になったシンクタンクを辞めた。

 コミュニティ・カレッジに留学し、旅行代理店で働いて、住権を取得し、アメリカに移住する計画を持っていた。ラスベガスは、巨大カジノホテルの建設ラッシュが起こり、好景気が続いていた。日本人旅行客数も増加しており、その仕事に携わる現地のツアーガイドが不足していたのだ。

 ベンジャミン・バグジー(虫けら)・シーゲルというニューヨークのユダヤ系マフィアが、砂漠に大規模カジノ・ホテル建設を始める。昼間はホテルのプール・サイドでゆっくりと肌を焼き、夜は食事をしながら豪華なショーを楽しみ、ギャンブルで遊ぶというアイディアを盛り込んだのだ。フラミンゴ・ホテルというのだが、これがラスベガスの都市イメージを決定づけた。

 開館当初のホテルを楽しむ人々の写真を見たことがあるが、現在と変わらない完成されたスタイルがそこにはあった。日本の闇市とは大きくかけ離れた特殊な世界が、同時期にラスベガスでは花開き始めていたのだ。ラスベガスは、バグジー・シーゲルのリゾート・コンセプトをその後、半世紀近く継承し再拡大しながら現在に至っている。

 
ラスベガスの現在

 人口が1998年、当時、100万人強。天候は、砂漠の天気は常に晴天である。それも雲一つ無い青空であることが多い。真夏の直射日光は身に危険を感じてしまうほどきつい。実際、脱水症状を起こしやすく、夏ラスベガス市民は一日に大量の水を摂取しなければならない。

 1920年代の大恐慌時代にニューディール政策として水力発電用のフーバーダムが建設された。ダムで堰きとめられてできた世界最大の人造湖レイク・ミードが、ラスベガスの喉を潤している。また、砂漠なので当然、空気はカラカラに乾燥している。夜洗った洗濯物を室内に干しておくと、翌朝にはパリパリに乾いている。これは節約になって、嬉しいが、車のバッテリー液が一夏で蒸発してしまうのには閉口してしまった。

 このような厳しい自然の中で、ラスベガスはどのような道を辿ってきたのだろうか。ラスベガスは実はスペイン語で「草原」の意味であり、まったく不毛な土地ではなかった。インディアンが狩猟生活を営んでいた痕跡が、レッドロック・キャニオン自然公園に残されている。現在もラスベガスには野生の動物、野ウサギやシカ、リスなどが生息しているのである。
 
 西部開拓時代に入植してきたのは、ビルガム・ヤング率いるモルモン教徒の一行である。彼らは、宗教弾圧を逃れてきたのが、ラスベガスでも再度迫害を受け、本拠地をラスベガスの北にあるユタ州ソルトレイク市に移す。現在でもラスベガスには、モルモン教徒が多く住んでおり、弁護士、会計士、医者、コンピューター・プログラマー等の知的な仕事に多くの人が就いている。
 
 さて、カジノなのだが、実は先のフーバーダムの建設には多くの中国人が徴用されており、彼らがやっていたギャンブルをラスベガスにマフィアが移したのが始まりだそうだ。そして、ラスベガスすなわちカジノ式の全国的な知名度を持つようになるのは、第二次世界大戦後まもなくのことだ。

 そして、現在(2001年)なのだが、ラスベガスの人口は100万人強にまで膨れ上がった。つい二十年前までは本当にド田舎だったのが、過去10年間で一挙に人口倍増しているのである。爆発的に都市が急拡大した理由は、なんと言っても1990年初頭から相次いだ巨大カジノ・ホテルの建設ラッシュだ。

 観光業というのは人海戦術を必要とするものだ。そして、大量の人間が職を求めてこの街にやってきた。彼らの多くはこう言う。「俺がやっているのはエブリバデイズ・ジョブ(誰でもできる仕事)だが、収入への助けは大きい」

 カジノのディーラーの平均年収は、三万ドル台(1ドル百円換算で三百万円)。また、ホテルのレストランでウェイターをして働いていた友人の月収は約三千ドルあったし、ベルマンの友人も月収は約三千ドルあった。チップで大きく稼げるのだ。

アメリカは物価が安いためこれくらいで充分やっていけるのである。そして、ラスベガスはアメリカの中でも特に物価が安いのである。特にマイホーム所有へ道が大きく開かれていた。一千万円台でで立派な住宅が購入できるため、郊外にはわんさか住宅が立ち並んでいる。ラスベガスでは、多くのアメリカ人にとって余裕のある生活が可能である。
 
 確かに自然は過酷だが、エアコンが完備された住宅という繭の中に入ると、砂漠の街といえども快適に過ごせてしまうものだ。付け加えて、カジノは24時間営業だし、付属するレストランもそうである。また、フィットネスクラブもそうだし、スーパーマーケットもそうである。

 スーパーマーケットでは、新鮮なシーフードも手に入るし、日本食も大概この街で調達できる。さらに、市営バスを除いてマストラがないので、どこに行くのも車だ。多少の渋滞はあるが、道は広いし一直線で街中で迷うこともない。すっかり、砂漠の中での生活を忘れさせるほどだ。
 
 また、ラスベガスの都市イメージとして、非常に人工的で不自然なものを想像する人は多いが、いずれにしても、現代都市は極端に人工的に管理されたものなのだ。砂漠の街ということで水不足を極端にイメージさせる訳だが、例えば、ロサンゼルスにも雨はほとんど降らない。

 ロサンゼルスも水を灌漑施設で引っ張ってきている。都市の規模からしてロサンゼルスの方がよっぽど、水に関しては心配なのだが、多くの人はそう考えない。ラスベガスは元来ロサンゼルスの悪所として発達した街だったのだが、現在ではそのロサンゼルスから逆に住民が治安の良さを求めてラスベガスに移ってきている。

 

ラスベガス公式ウェブサイト http://www.visitlasvegas.jp/

 


 

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6、ベジタリアン・フードの威力(1998-2001ラスベガス)

 
低所得者用アパートへ引っ越す

 旅行の仕事は、時間が不規則だったし、ラスベガスの複雑な運行管理があり、私はストレスから、夜に眠れなくなっていた。そして、いつも体が疲れており、眠気が残っていた。そのため、まず、とにかく、事務所へ、10分以内の場所に住むことが必要だった。近くへ住めば住むほど、睡眠時間を確保できる。一度、朝早くホテルへ向う途中、ガソリンスタンドで給油した際に、キーをつけたままドアをロックしたために、窓ガラスを蹴破って、ロック解除したことがあった。時間がなく、仕方なかった。

 幸運にも、事務所の周りは、低所得者用のアパートが立ち並んでいた。住民の大多数がスペイン語を話すヒスパニックや黒人で、残りは少数の白人たちで、アジア系の人間は、ほとんど住んでいなかった。ほぼ、メキシコのような雰囲気だった。私一人が住むだけならば、とことんボロいアパートでも良い。ワンルーム・マンションの賃貸料は、一月に500ドル前後で、どこも大差は無い。しかし、猫付きとなると、そうは行かない。

 まず、ペット飼いが可能か。そして、猫が、外に出たときに外敵から身を隠すための低木などが管理されていることが望ましかった。ほとんどのアパートの庭は、芝生のみの管理で殺伐としている。かなりの時間をかけてチェックして回った結果、あるアパートが、芝や低木、大木、そして、パームツリーが整備されており、申し分なかった。また、古ぼけてはいたが、小さなプールやスパ温泉も付いていた。

 そして、会社まで10分かからない。家賃は、450ドルで、ペット可だ。ここに決めた。引越しは、当時バンドのメンバーだった韓国系のM君とドラマー君に手伝ってもらった。彼らとは、コミュニティカレッジで知り合った友人を介して知り合いになった。主に、教会で演奏するためのバンドだった。

 

アパート住人が、いきなり逮捕


 
 当日、荷物を積んだ車でアパートのゲートをくぐると、駐車場にパトカー止まっており、精悍な顔をした男性のアフリカン・アメリカンが、警官二人に手錠をかけられていた。彼は、私の方を見たが、大して悪びれた様子も無く、また、深い絶望感も感じられなかったが、引越しを手伝ってくれたM君とドラマー君は、私が、こんな治安の悪いアパートに住んで、殺されないことを願うよ、と心配していた。しかし、私は、大丈夫だよと彼らに言うしかなかった。

 大体、逮捕くらいで、大げさに言うな。家賃の安さと、猫のための住環境、そして事務所への利便性を考えれば、ここに住むしかなかったのだ。また、私は、高校生のときに習った少林寺拳法は黒帯だ。合気道も社会人になって、二年ほどやった。また、極力時間を作って、スポーツ・クラブで、筋トレを積むようにしている。

 ここはアメリカだ。スーパーマーケットやコンビニで、ホールドアップという可能性もありえる。そのためには、普段から体を鍛えて、運動神経を鍛えておかねばならない。私の場合、痩せているのため、弱く見える。そのため、ターゲットになりやすいので、なおさら、トレーニング等々は重要なのだ。M君やドラマー君も二人とも、アジア系という事で、差別や攻撃を受けないように、自己防衛手段として、普段から、ボディ・ビルディングのトレーニングを積み、プロティンを飲んだりしていた。

 彼らの筋骨隆々の頼もしい体格で、荷物の運搬作業は、実にスムーズに行われた。ただ、中古のマットレスを運んでもらっている途中、二人が、「このベッドは、ひどく汚れている。こんなの使ってたら病気になる」と言われて、頭に来た。まったく、モノを大事にしない奴らだ。しかし、普段は、コットンのカバーを巻いて使っていたので分からなかったのだが、良く見ればシミだらけで本当に、汚らしかったので、捨ててもらった。

 

ギリギリの生活資金


 頭に来た理由は、彼らの発言にではなく、私が新しいベッドを買えない情けない状況にあったからだ。学校の授業料や、生活費、そして、中古の車が、頻繁に故障して、修理費がかさみ旅行のバイトで得た金では、ギリギリだった。それに加えて、ムチ打ちの交通被害を食らっており、私は常にイライラしていた。

 また、ラスベガスの驚異的な夏の暑さも、まいっていた。新しいベッドを買う余裕は無かったので、24時間営業の量販店のウォルマートで、20ドルでキャンプ用のエアー・マットを購入して使った。しかし、このベッドは、ニャンコ先生が爪を立てて、空気漏れがしてしまい、すぐに使えなくなってしまった。

 この引越しの後、お礼に、食事を奢ったのだろうか、多分二人が、私の懐を気にして、遠慮してくれた記憶が残っている。ちなみに、日系の友人の引越しを手伝った彼の礼は、キッチンから出てきた古いインスタント・ラーメンだった。また、アフリカン・アメリカンと白人のカップルの引越しを手伝ったときは、引越しパーティで美味しい料理にありつけた記憶がある。

 アパートでは、私は、結構自炊していた。私は、意外にも料理が好きなのだ。アメリカは、食費が特に安いのだが、切り詰めていた。一番安価な食材を探した結果、ニンジン、ジャガイモ、パセリ、鶏肉となった。これで、よくチキンスープを作った。食材を丸ごとお湯に入れて、加熱するだけだ。あとは、お米を炊いてできあがり。

 

ベジタリアン食の効果


 ただ、ラスベガスのホテルは、客寄せに安価な料理をレストランで提供しており、これも良く食べに行っていた。例えば、ステーキ&エッグスという料理が3ドル食べれてしまう。また、バフェという食べ放題のレストランが、10ドル前後で食べれてしまう。カロリーの高い料理を相当食べており、身体がいつも疲れていた。しかし、この当時、もし、ベジタリアン食の威力を知っていれば、私の生活はまったく違ったものになっていたに違いない。
 
 カロリーの高いものを食べ過ぎた結果、身体に疲労感が色濃く漂っていた。疲れているので、また肉を食べてスタミナをつけて、という悪循環。肉食へのスタミナ信仰を盲目的に信じていた。この時、断食の効果を知っていれば、体調を整えることができた。まさに、後悔先に立たずである。
 
 現在では、生野菜は、酵素が含まれており、これが体に良いことが分かっている。なるべく加熱しない方が良いようだ。生野菜なら、加熱によるビタミンの損失も防ぐことができる。そして、肉の代わりに、植物性のたんぱく質を主に大豆から取る。こうすれば、体の酸化を防ぐことができ、疲労を取り除くことができる。

 野菜だけで、力が出るのかと疑問視されてる方もいると思うが、1983年のロサンゼルス・オリンピック陸上金メダルのカール・ルイスや、テニスのナブラ・チロワなどのスポーツが選手は、完全菜食主義者である。野菜のパワーというのは、本当に計り知れないものある。


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7、アメリカ滞在と護身術(1998-2001ラスベガス)

頭痛

 

 ラスベガスはトラブルが多く、会社で観光客のクレーム処理をしていた私はストレスの塊と化していた。また、仕事中に激しい頭痛があった。病院では、ストレス障害と診断された。私は旅行代理店を辞めて、日本へアンケート・リサーチをしている会社に移った。


ブルース・ジャムセッション


 一方で、私は、ブルースバンドのリーダー、に頼んで、飛び入りでギターを弾かせてほしいと頼んでみた。すると意外にも、じゃあ、ライブで一曲弾いてみろとなり、私は、ギターをかついでハウス・オブ・ブルース(HOUSE OF BLUES)の入っているマンダレイベイ・カジノホテルへ通い始めた。

 本場アメリカで、しかもエンターテイメントの本場ラスベガスでギターを弾く。考えただけでも、緊張する。日本のライブハウスで何度かギターを弾いたことはあるが、今回はバンドのレベルがまったく違う。よく飛び入りのチャンスを与えてくれたものだと今でも思う。

 飛び入りも回を重ねるごとに、徐々に緊張も解けてくる。また、24時間営業のブルース・バーでのジャム・セッションにも参加して演奏した。ハーレー・ダビッドソンにに革ジャンスタイルの客が集まるワイルドな小屋だ。しかし、ジャム・セッションは誰でも参加が可能であり、地元の音楽通やカジノで演奏しているプロミュージシャンが演奏している。
 
 大体、演奏している場所は、バーなので、また、音楽をやった後に、疲れを取るという形で、私もお酒をかなり飲むようになっていた。24時間のバーでは、友人も増え、彼らの多くは、私よりも年配という事もあり、お酒を飲ましてもらう機会が増えた。   


護身術が基本

 

 
護身術 クラヴマガ



 ところで、日本で、人からアメリカへ行く際には、空手か何か武道をやっておいた方が良いのかと聞かれることがある。それはもう、当たり前でしょう、相手は銃を持っている可能性があって、こちらは手ぶらなんですから、と私は答えている。前述のように、私も、高校のクラブで少林寺を稽古し、社会人になって合気道も二年やった。時間を作って、筋トレも続けている。

 しかし、それでもピストル強盗は防ぎようがない。どうしてもというなら、護身術のクラブマガか功朗法で、ピストル対応の護身術を身につけるしかないと思う。私は、単に運が良かっただけで、強盗に遭っていないが、一度、二日酔いの朝に、アパートの近所のアンちゃんと口ケンカになり、彼の手に小型のナイフが握られていたことがあった。そんなものしまえよ、で事なきを得たが、あの時は冷や汗が出た。

 こんな事もあり、私は一時期、ポケットには、財布を二つ持っていた。ひとつは、ピストル強盗に差し出す分だ。使わなくなったカードを入れてカモフラージュし、現金も普通に持ち歩く分くらい、例えば、60ドル位は入れておく。こうしておけば、ホールドアップされても、運転免許証やカードまで取られることがない。再発行はめんどくさいものだ。

 ただし、普通アメリカ人は、財布に免許証を入れているので、お前、財布に免許証が入ってないじゃないかと、突っ込まれる可能性はある。かつてのルームメイトが、やはり確かレストランでピストル強盗に遭遇している。彼は、剣道二段だったが、恐らく、強盗の顔を見て判断したのか、財布を出すことを拒否している。

 それで何も無かったというのだから、こういう剛の者も中にはいる。コンビニやレストラン強盗に遭った場合、普通は、強盗の顔を見ないように財布を渡す人が多いそうだ。これは、強盗が顔を見られるのを嫌がるためで、そのことに気を利かせて財布を渡しているのである。

 これらの、自己防衛について、究極のハウツー本が出版されている。私が読んでいたのは、柘植久慶先生のサバイバル本だ。アメリカに旅行・留学・移住する、いずれも人も、一度目を通すことを強くお勧めしたい。



8、テキサス州サンアントニオ(2005)

サンアントニオへ

 9.11のテロから4年後、私はアメリカの友人を訪ねて、テキサス州のサンアントニオを訪れた。サンアントニオは、水郷再生の町として有名だが、一方、背後には広大な空軍基地が控えている。四日間の滞在中、ついに私は、私以外のアジア人を見ることが無かった。こんなアメリカの都市は初めてだった。街の中心地には、有名な「アラモの砦」があり、多くの観光客で賑わっている。

 街中の観光は、再生された水郷・リバーサイドとアラモの砦の二つが大きな目玉だが、サンアントニオの街は、ほどよくコンパクトに出来ており、一日あれば、二つとも歩いて十分に観光できる。気候もよく、街も美しく、人もフレンドリーで、私が、今までアメリカで訪れた街の中では、ベストではないかと思う。知り合いの粋な計らいで、ジャズクラブでのパーティーに参加させてもらった。  

サンアントニオ公式ウェブサイト(英語) http://www.visitsanantonio.com/index.aspx

ワイナリーツアーヘ 

 また郊外のワイナリーのツアーにも連れて行ってもらった。メンバーは、お酒の好きな人が集まっていたようだ。弁護士、判事、TVディレクター、元アメリカ海軍隊員、保険代理店のオーナー、建設会社の社長夫妻、MBAの学生、カフェの店員さんなどのグループでワイナリーに出かけた。ここまで、高学歴で、かつ社会の上層に座するグループにまぎれたのは初めてだった。ただ、どういう訳か、疲れている顔をした人が多かった。多分、飲みすぎで胃腸が疲れているのだ。しかし、みんなワインを飲みまくり、楽しいひと時を過ごしたのだった。ただ、私は禁酒中だったので、ほとんど飲まなかった。

 また、ラスベガスで知り合いになったブルース・ミュージシャン,
Willie J Laws Jr.さんhttp://www.youtube.com/watch?v=lSiVbHaUqYIにも会った。ラスベガスの彼のステージに何度か飛び入りをさせてもらった事がある。今回は、彼に、新作CDを録音中のスタジオを案内してもらった。彼は、もう音楽のみに集中する生活になったと語っていた。後日、その新作を取り寄せて聴いたが、すばらしいサウンドに仕上がっており、やはり流石だと唸らされた。

San Antonio Travel





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番外編・韓国見聞録

初の海外一人旅

 

 私が、初めて韓国に行ったのは、1989年で今(2012年)から20年以上のも昔の話になった。光陰矢の如し。当時の韓国は、盧 泰愚(ノ・テイウ)政権で、まだ、厳しい軍事政権下にあった。87 年には、あの大韓観光空爆破事件という悲劇が起こったが、翌年の88年のソウル・オリンピックには成功し、また、70年代から始まっていた漢江(ハンガン)の奇跡と呼ばれる高度成長期を経て、多くの人々が、豊かさを享受しはじめていた。

 韓国旅行は、二浪時代に河合塾予備校、現代国語講師の竹国友康先生に推薦してもらっていた。北海道でスキーをするくらいのお金、5万円くらいあったら韓国にも行けるから、国際感覚を養おうよ、ということだった。私は、共鳴し、大学の春休みを利用して、長距離バスで大阪から下関へ。そして、下関から出航している関釜フェリーを利用して玄界灘を越えた。

 ちなみに、竹国先生は、韓国関係の本(※)を三冊出版されており、韓国の専門家でもある。また、先生とは、去年25年ぶりに再会し、梅田の阪急ホテルの喫茶店で、紅茶を御馳走になり、お互いの近況と韓国について話し、楽しいひと時を送った。また、一冊購入した先生の本にサインをもらった。サインの上には、「夢」と先生は書かれた。

 (※)参考:『ある日韓歴史の旅 鎮海(チネ)の桜』(朝日選書622 朝日新聞社、1999年3月刊)、『韓国温泉物語―日朝沐浴文化の交流をたどって』(岩波書店、発売日: 2004/3/16刊)、『ハモの旅、メンタイの夢――日韓さかな交流史 』(岩波書店)

 私は、旅行の直前まで、JR新大阪駅のカレー屋でアルバイトをして、約1週間の旅程に、2倍の10万円の旅費を用意した。飛行機を利用せずに、海路を選択したのは、ゆったりと旅情を楽しみたかったらだ。また、フェリーは、学割が効いたので、片道6900円という低料金も魅力だった。現在では、高速フェリーが出て3時間で行けるが、当時は、私の乗ったフェリーでも、夜には釜山沖に着くので、一晩停泊して、税関が朝に開くのを待つという、のんびりした旅だった。ただ、半日感情の強い国なので、心中は穏やかではなかった。旅行というよりも「冒険」だった。
  


さっそく、釜山で睡眠薬強盗に 


  船の中で知り合った九州大学の医学生と一緒に釜山デビュー。地図を持って、街中をウロウロしていたところを、スーツを着たサラリーマン風の二人に流暢な日本語で声をかけられた。彼らは、会社が創立記念日でお休み。そこで、これから日韓親善のためにも飲みに行きましょうと誘われた。友人と相談したのだが、彼らの身なりもキチンとしている、大丈夫だろうと考えて飲みに行った。

 しかし、飲みに行った刺身屋で焼酎に睡眠薬を混ぜられて、私と友人は昏睡させられてしまった。昏睡する直前に、首と太ももの付け根を手で押さえられた。恐らく軍隊で習ったのだろう。ぞっとして、笑ってごまかしながら、 相手の手を払いのけたが、どうも、そこからの記憶がない。約一時間して目覚めると財布の中身が抜かれていた。友人は、まだ昏睡中だった。起こしてみると、彼の財布からも金は消えていた。二人合わせて5万円ほど失った。

 しかし、私は街中でスリに会ってはマズイと考え、スニーカーの中敷の下にある程度金を隠していた。運よく、この金は無事だったので、店の支払はすませた。ただ、医学生の体調が悪かった。ホテルに戻るため、介抱していた医学生をタクシーに乗せた瞬間、うっ、俺って孤軍無援での兵士みたいでカッコいいなどと瞬間的に思ったりもした。この期に及んで、自分にも酔っていたのだから、仕方がない。しかし、酒に睡眠薬入れて動脈を押さえるなど、言語道断である。これは、小さな戦争だ。また、店ごとグルかもしれなかった。しかし、帰りのタクシーのおじさんは人柄が良く、韓国も捨てたものではないなと、これまた、すぐ思ったりもするのだった。



 犯人は、当時30才くらいだったから、現在(2012年)で、50才くらいか。二人ともがっしりした体系。主犯格の男は、色白で眼がつり上がったサラリーマンタイプ。もうひとりは、本当かどうかは知らないが、柔道の選手で国体で結構いいところまで行ったと言っていた。主犯格の顔は、もう忘れたが、柔道の方は特徴のある顔だったので、今でもよく覚えている。

 
 この事件では、やはり、反日感情の深さを思い知らされた。ただ、外国で地図をひろげて歩いたり、親切に話しかけてくる人を信用してはいけないのは、海外旅行の初歩の初歩、基本中の基本なのだが、それが分かっていなかった。本当に情けない。私たちは、甘い日本の大学生だった。

一方、インド帰りは、ガールフレンドをゲット



 その後、どうも胃の調子も悪く、妙な脱力感があった。お金を失ったので、宿泊料の高いホテルをキャンセルした。また、ソウル行きの旅費も失った。そこで、宿泊料の安いドミトリータイプの愛隣ユースホステルへ移った。 そのユースは丘の上にあり、教会も併設されていたように思う。素晴らしいユースだった。私は、まだ、韓国人の多くがキリスト教を信仰していることを知らなかった。

ユースで、知り合った日本の大学生たちと情報交換をすると、韓国で睡眠薬強盗に遭っている日本人学生が多いという話だった。私は、もう釜山の韓国人は、怖いのと、嫌になったのとで、食事にだけ外に出てあとはベッドでゴロゴロするようになった。

 一方、ユースには、インドから一人旅してきた猛者もおり、彼なんかは韓国は別段、どうということもない様子だった。彼に言わせると、我々二人がドミトリーに入ってきたとき、猜疑心の塊のような目をしていたのだそうだ。

 「あ、もしかして君らも、睡眠薬強盗やられたの?しかし、日韓交流で、これからの若い世代に睡眠薬やるのは、良くないと思うんだよな。だってさ、これからの日韓交流の芽を摘んでいるようなものじゃん」

 「インドから帰ってきて、こっちでは、何も被害にあっていないんですか」

 「うん、僕は、アーミージャケットを着ていたからか、バスに乗っていた時にご老人から、ものすごい剣幕で怒られた。おそらく、日本の軍国主義を老人は問題にしていたと思うんだよね。でも、俺は、韓国語ができないので、どうしようもなかった。それよりも、街でロングヘアーの美人女子大生と知り合いになって、デートしてるんだ。ここに写真があるよ」

 「え~、すごい美人じゃないですか」

 また、ユースには、天理大学の朝鮮語専攻の日本人学生がいて、彼に通訳を頼んで警察に被害届を出しに行った。しかし、警官には、そんな小さいことで被害届を出しに来ないでくれ、ケンチャナヨみたいな事を言われたように思う。そんなこんなで、結局、一度目の旅行では、釜山のみを見て、ソウルには行かずに帰国となった。




二度目でソウルに到着

 
 しかし、悔しいので、態勢を整えて、今度は夏休みの後半を利用してソウルまで行ってきた。前半は、長野県でレタス栽培のバイトやって旅費を貯めた。このバイトはひたすら、箱詰めのレタスをトラックに運ぶという、体力的にきつい仕事だったが、コレくらいやって鍛えておかないと韓国では太刀打ちできない。バイトを終了して、再び、プサンにフェリーで行き、そこから、確か高速バスに乗ってソウルへ向かった。 ソウルでは、ヨクサン(駅三)ユース・ホステルに宿泊。地下鉄駅のすぐ近くにあり、新しく清潔で料金も安く、すばらしいユースだった。

 ただ、今度は、朝のソウルを散歩中に話しかけられたオッサンに、言葉がよく分からないので適当にネー(はい)と答えたら、突然、羽交い絞めにされて路地裏に引っ張って行かれた。もう一人、近寄ってきて、相手は二人となった。しかし、こっちも頭に来て振り払って、少し離れたところで、I don`t knowと怒鳴ったら、向こうも呆気に取られたのか、後を追ってくることは無かった。

 それは、ともかく、当時はまだ貧しさの片鱗が、至る所に残っていた。人の良さそうな白いチョゴリを着たおばあさんが、地下鉄駅の駅の階段に腰掛けて、小銭を恵んでもらっていた。従軍慰安婦だったのかもしれないと思った。ソウルで知り合いになった大学生は、韓国の福祉はまだまだですと嘆いていた。

 

 その後一度も訪韓していない。しかし、去年から韓国語を勉強し始めた。一応、初歩くらいまではやったのだが、ちょっと時間が空くともうすぐにハングルを忘れてしまう。今、2012年で私は45才なのだが、やはり記憶力が低下している。しかし、大体、観光地では日本語が通じるので、私の勉強も、ま、いいかと思っている。しかし、おそらく、私が再度、韓国を訪れることはないだろう。日本に滞在している韓国人とコミュニケーションを取りたいと思っている。



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