米国見聞録

旅行・留学・仕事を通じたアメリカ滞在の記録です。番外編で韓国見聞録があります。

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はじめに

アメリカは銃社会です。基本的に君子危うきに近寄らずですが、諸々の事情で行かなければならない場合は、護身術をおすすめします。
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1、横断旅行・サンディエゴ語学留学編(1990)

サンディエゴで語学留学

 1990年2月。当時,私は関西大学の3回生だった。友人の間でアメリカ旅行一人旅が流行っており、私もアメリカ横断に出かけた。当時は、ブッシュ・パパの時代で、日米の交流も盛んだったが、私の英語は未熟だったし、アメリカは銃の危険もあるので、冒険に近い旅だった。旅行の直前まで、大阪の伊丹空港で、航空貨物の荷卸のアルバイトをした。このバイトは体力的にキツイ仕事だったが、時給が良く半年で約50万円ほど貯まった。また、腕の力こぶは大きくなった。アメリカは、マッチョが信奉されている国である。また、治安上、旅行中に何があるかも分からない。体を鍛えておくことが必要だった。ちなみに私は、大阪府立箕面高校で少林寺拳法部に所属し、初段を取得いていた。

 旅の前に、大阪の池田市のアップル英会話学校に通って、イギリス人女性とアメリカ人男性から英語会話を習った。この学校は、他の英会話学校と比べて、格段に授業料が安かった。授業の内容も充実しており、寒い冬の中をスクーターで約5キロを走っ通った。女性の英語教師は、彼女は、地下鉄でスーツを着たサラリーマンがスポーツ新聞のHな欄を読んでいるのが、信じられないと言っていた。なぜと聞かれたが、うまく答えられなかった。

 また、男性教師は元パイロットで、ロサンゼルスの出身だった。私が、アメリカの旅行を計画していると、ロスの治安の悪い場所などについて教えてくれ、さらに、実家の住所まで教えてくれて、もし、近くまで行くなら訪ねたらいいよと、フレンドリーだった。

 コリアン・エアーに往復9万円の格安航空券で搭乗した。ソウル経由だった。ロサンゼルスのパスポート・コントロールを通過し、ゲートを出た待合広場には、南カリフォルニアの明るいサンシャインが差し込んでいた。広場には、体格の良い、髪が黒く肌の浅黒いヒスパニック系の人々が、派手なアロハのシャツや、革ジャンを着て、大声で話し合っている。失礼ながら、まるで、野獣の群れだ。エネルギーが渦巻いている。

 ハリウッド映画や刑事ドラマに出てくるドラッグディーラー達といった感じで、圧倒された。当時、私が見ていた特捜刑事マイアミ・バイスや刑事ハンターの世界である。ヒスパニック系の人たちの他には、黒人やアジア系の人が多く、白人の姿はあまり見られない。これが、カリフォルニア南部だった。多分、大学生だと思われる日本人が、両替をしている。彼の動作は機敏だった。隙を見せない動きを、アピールしているように見えた。



 私も、ついにアメリカに来た。2週間ほど、サンディエゴで、語学留学し、その後、アメリカ大陸を横断する予定だ。再び、ロサンゼルスからホームステイ先のサンディエゴに飛行機で移動した。

San Diego Travel Video









 
 ホームステイを体験


 サンディエゴ国際空港から、指定されたアムトラックの駅へ。しかし、約束していたはずの語学学校からの出迎えが来ていなかった。外は、夕暮れに包まれて寂しくなってきている。私は、だんだん、不安になってきた。そこで、ホームステイ先に直接電話をかけて、車で迎えに来てもらった。なんとか、英語が通じた。彼女は、学校からの迎えが来なかったことを詫びながら、まず、夕食にマクドナルドに連れて行ってくれた。

 私は、ここでハンバーガーとフライドポテトを食べた。動物というのは、腹が満たされると落ち着くものだ。ホースステイ・マザーは、ステイする学生のポイントを良く押さえていたと思う。彼女が運転する車は、ニッサンの古い車で、助手席の足元には、10円玉ほど穴が開いた。車は、ハイウェイを走っているので、アスファルトの地面が流れて見える。彼女は、エンジンは整備しているから大丈夫だと言っていた。

 到着した郊外の家は、立派なものだった。ご主人は、アメリカ海軍に所属し、ハワイの基地に単身赴任していた。写真を見せてもらったが、やはり体格が良く、髪の毛を短く刈り込んでいる。精悍な顔つきをしていた。サンディエゴにはアメリカ海軍の基地があり、その家族が多く住んでいるのだった。
 
 この家庭には、先にホームステイしている日本人がいた。彼は、海軍のオヤジさんが帰宅した際に、息子のジョニーとともに冬の朝のプールを泳がされていた。このオヤジは、運よく私の滞在中にサンディエゴに戻ってこなかった。戻ってくれば、私も冬のプールを泳がざるを得なかっただろう。そのオヤジと私も一度、電話で話したが、偉そうぶった様子はなく、逆に腰が低い。私も最上級の丁寧英語で対応したが、彼も「私も、あなたと話ができて光栄です」などと、丁寧な言葉遣いだったのが印象的だった。

 また、この家庭には、カナダ人の大工さんも、部屋を借りて一緒に住んでいた。私は、この家にホームステイして、サンディエゴ大学付属の語学学校に約2週間ほど通った。クラスの生徒が世界各国から集まっているのは、国際的で興奮した。先生の英語は聞き取りやすく、理解は進んだ。また、学校からの夜のツアーで、国境の街、メキシコのティワナへ行った。サンディエゴは、メキシコに国境に面しているので、すぐに行ける。暗くてよく見えなかったのだが、やはり貧困の町としての雰囲気は伝わってきた。

 一方で、ラ・ホヤという海の綺麗な観光地にも学校のツアーで行った。青い海に白いカモメがたくさん飛んでおり、なんとも景色の良い場所だった。ツアーの帰りに、バンの中で80年代後半にヒットしたTOTOのバラード曲、"I will be over you"が流れて、街のイメージと良くマッチしていた。80年代にTotoにどっぷり浸かっていた私にとって、南カリフォルニアは、憧れの街だった。

 
San diego down town.com(日本語)http://www.sandiegotown.com/

 


 




2、横断旅行・サンフランシスコ編(1990)

アメリカ大陸横断一人旅へ


 2週間におよぶ、サンディエゴでの準備期間が終わった。いよいよ、これから、アメリカ大陸横断の旅に出る。目的地は、ニューヨークで、最後には、ロサンゼルスまで戻ってくる。移動手段として、アムトラック長距離鉄道の乗り放題のパスを日本で購入していた。

 サンフランシスコは、まだ、すごく寒いというホスト・マザーの貴重なアドバイスをもらって、登山用の丈夫なダウンジャケットも購入した。これは、本当にありがたいアドバイスだった。まず、サンディエゴから、アムトラック鉄道を利用して、サンフランシスコへ向う。一晩、電車の中で過ごして、朝方、郊外の駅に到着。当時は、そこから、バスに乗り換えて、サンフランシスコの中心へ向った。
 
 向う途中で、やはり、旅行に来ていた日本人男性の学生の二人連れと、知り合いになる。彼らは、私の買ったダウンジャケットが、アムトラック鉄道員のユニフォームに、似ていたことから、彼らは、私を日系のアムトラック従業員だと思っていた。ちゃいますよー、日本人ですよ、で打ち解けてすぐに友達になった。

 

元ポリスがガイドの射撃ツアー

 

冬の寒い朝のサンフランシスコだったが、初めて見るサンフランシスコは、やはりお洒落な感じがした。「地球の歩き方」を読んで、決めていたホテルに向う。本当は、事前に電話で予約しておくべきだったのだが、まだ、英語の実力がなく、行き当たりばったりにしていた。運良く、空室があったので、チェックインできた。

A San Francisco Minute



 サンフランシスコでは、安くて美味しいと評判のステーキ店に行ったり、チャイナタウンをブラブラして、チャーハンを食べたりした。また、友人達と射撃のツアーに参加した。ガイドは、中国系アメリカ人で、元サンフランシスコ市警のポリスだった。年齢は、30歳の中ごろだったと思う。

 ジャッキーチェンにも似たハンサムで、中国系アメリカ人の映画俳優でも、おかしくないような人だった。淡いピンクのポロシャツを着て、サングラスをかけて、白いバンを運転していた。彼によると、サンフランシスコの警官は、名誉の戦死をやりたがるのだそうだ。カーチェイスなんかも、無茶をやって、死ぬ人が多いのだ。彼は、命がいくつあっても足りないと考えて、警察を辞めた。とにかく、クレイジーだと、彼は何度も強調していた。

 「ガイドの仕事は、給料は多少減ったが、それでも、年収が500万円くらいになる。今では、家族サービスに時間を取れるし、死の危険に晒さらされることもない」

 そして、彼は、コレが僕の奥さんだよと、彼のポケットから革の財布を取り出して、奥さんの写真を見せてくれた。白人の奥さんで、ニッコリと微笑んでいた。アジア系の男性が白人女性と結婚することは、彼の自慢だった思う。

 射撃のやり方を、彼は丁寧に教えてくれた。銃を両手で優しく握って、絞り込むように撃つ。彼の模範射撃は、やはり様になっていた。同行した女の子からは、カッコいい!と歓声が上がる。彼女は、アメリカ生まれで、その後、日本で育った。アメリカの市民権が取れるかどうか、弁護士に相談に行くためにサンフランシスコを訪れていたのだ。

 彼女は、英語が上手く、羨ましかった。ツアーの後、彼女の先輩で、アメリカ人男性と結婚した日本人女性とも会った。彼女の旦那は、旅行関係の仕事をしているという話だった。私は、ロック・ソウル歌手のBoz Scaggsの経営しているブルー・ライト・カフェhttp://www.diddit.com/restaurant-fzrxbk/san-francisco-bay-area-singles-bars/blue-light-cafe/に行きたいのだが、知っていますかと訊いた。しかし、彼女はそれを知らなかったのが残念だった。当時のScaggs氏は、Other Roadという新譜を出して世界ツアーなども行っていたが、数年前に音楽業界に嫌気がさし、地元のミュージシャンを育てるべくリズム&ブルース主体のカフェをオープンしていたのだ。次回訪れる機会があれば、必ず行きたいカフェだ。

 

サンフランシスコ公式ウェブサイト(日本語) http://www.sf-japan.or.jp/

3、横断旅行・カンザス~サンタフェ編(1990)

カンザスを大学教授に案内してもらう

 サンフランシスコに数日滞在後、再び、アムトラック鉄道のフリーパス・チケットを使用。今度は、一昼夜かけて、今度は、中西部のカンサスへと向った。電車の中で白人のお爺さんに、 アメリカに来た理由は何かと問われた。何だか尋問みたいで一瞬ギクッとした。しかし、日本と戦った経験のある爺さん世代から、こんな質問が出てくるだろうと予想はしてあった。それに、答えは簡単で観光だ。

「シー・サイトイングです」

一瞬間が空いた。

「サイト・シーイングだろ」

「あ、イヤー、そうです」

 Sight seeingがSee Sightingになって間違えて口を出て、赤面した。そんな電車の旅だった。ちなみにカンサスは、カンサスと発音しても通用しない、キャンザスと言うのだった。

 カンサスを訪れたのは、カンサスというバンドが好きで、一度当地を見てみたいという動機からだった。

Kansas City, Missouri




 アムトラックの中では、カンサス大学の都市計画の先生とも知り合いになり、町を案内してもらった。ハルマークというグリーティング・カードで有名な会社の本社や、市場を見せてくれた。

 私のバンドのカンサスが好きだから来たという理由が、現地の人々には受けた。 大学教授は、本当に親切な人だった。 しかし、カンザスは、一日だけの滞在で、次は、サンタフェを目指さなければならなかった。

 長距離バスのグレイハウンドにストライキが起こり、バスの利用者がアムトラック鉄道に流れてきていた。そのため、チケットを押さえるのが困難になっており、私は、行く先々で長時間の電車待ちを余儀なくされた。

 カンサスの待合室にあるコンビニで、サンドイッチを買っていると、黒人のおっちゃんに、俺の分も買ってくれとせがまれた。もう、何日も食べていないのだと言う。

 じゃあ、仕方ないから、買ってあげようとすると、おっちゃんの家族も現れて、私らの分も買ってくれとなった。 ちょっと、待て、そんなに大勢には、買えないなと悩んでいると、白人の若いビジネスマンが、彼らに、買ってやることなんか無いと断ってくれた。

 その後、その若いビジネスマンの家に招待されて、家の中を見せてもらったりした。結婚したばかりの彼の奥さんと合流して、レストランへ食事に行って、私は、またハンバーガーを食べた。

 800万円くらいで、一戸建ての新築の家を購入しており、羨ましく思った。彼は、クレジット・カード会社で働いていたのだが、生活にゆとりがあるように見えた。

 当時の日本は、土地バブルで、サラリーマンが一生働いても、家は買えない時代だった。私は、彼の家を見て、アメリカに将来的に移住する気持ちを固めた。

 近くの高校で学んでいた日本人留学生も、家に来て、少し話をした。そして、少林寺拳法の型を少し教えてあげたのだった。

 

カンザス・シティ公式ウェブサイト(英語) http://www.visitkc.com/index.aspx


 

サンタフェで癒される

 そして、次にサンタフェへと、移動。 サンタフは、ネイティブ・アメリカンの文化が色濃く残っている。土壁の家が多く、こんなエリアがアメリカに存在するのかと思えるほどだった。エコロジカルな性格を持った特徴的な街だといえよう。個人的には、こういう街が一番、好きなのかもしれない。

 

サンタフェ公式ウェブサイト(英語) http://www.santafenm.gov/

 


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4、横断旅行・エルパソ~メンフィス~ワシントン~ニューヨーク~ロサンゼルス編(1990)

エルパソ行きのバス~フロントガラスに銃弾

 ユースホステルに宿泊して、今度はテキサス州のエルパソに移動。 グレイハウンド長距離バスを利用したのだが、フロントガラスには、銃弾の跡があった。 バスは、管理職員が運転していたのだが、運行に抗議した従業員が抗議して、撃ったのだ。従業員は、依然ストライキを続行しており、また、撃ってくる可能性もあったが、我々のバスは、問題なく出発できたが、エアコンが故障して冬なのに暖房が入らず冷房が入っている。ただでさえ寒いのに、冷房入れてどうするんだ。一晩中、寒さと戦いながらのバスの旅だった。

 エルパソの近くには銀、銅、原油など鉱産資源が豊富で銅精錬所や石油精製工場の立地が相次いでいる。また食品加工などのほか、近年はハイテク産業も集積しているが、街は、あまり大きくなく、見所もあまりない。そこで、リオ・グランデ川を越えて、メキシコのシウダー・ファレスへと足を運んだ。 ここでもやはり、米墨間の格差の激しさが印象に残っている。

 



ダラスで故ケネディ大統領を偲ぶ

 再度、グレイハウンドを利用して、今度はダラスへ。 ダラスは、ケネディ元大統領が暗殺された街だ。ここでは、高層ビルの屋上に上がり、町の全体を俯瞰してみたり、町中にあるケネディ・メモリアルへ行ったりした。白いスーツを着たブラザーがメモリアルを写真撮影していた。ケネディは公民権運動を大統領在任中に推し進めている。

 ホテルに泊まる金をセーブするためにバス停に長時間滞留した。ホームレス風のブラザーが多く、私がイスに座っていると、このイスは俺の席だと文句を言ってくる人もいた。

 


 



メンフィスで北欧系女子と食事~周囲の視線が突き刺さる

 次いで、テネシー州メンフィスへ。ここでは、公民権運動の中心的役割を担っていたマーティン・ルーサー・キング・ジュニアが凶弾に倒れている。


Your Travel Guide: Musical Memphis Tour




 このメンフィスでは、駅でベルギー人の女の子と知り合いになり、プレスリーのグレースランドへ遊びに行った。 ピンク・キャデラックの前で、お互いの写真を撮ったり、フランス人の女の子も二人合流して、ランチを食べに行った。

 しかし、アジア人が白人女子3人と食べている図は、20年前の南部ではまだ、タブーだったようだ。
店の人も、食事していた客も、こちらの方へ厳しい視線を向けていた。彼女たちは、食事をしながら、英語でしゃべりまくる。こっちは、ぜんぜん会話についていくことが出来なかった。

ヒッチハイクでヤバイ目に

 一日、宿泊して今度は、ワシントンDCへ移動するため向うため、明け方、まだ暗いうちに、鉄道駅までヒッチハイクをした。 しかし、ドライバーを、よく見ると下半身丸出しで運転していた。

一挙に押し寄せる恐怖感。
 
 信号が赤になり車が止まったので、ここで降りると言ってドアを開けて降りようとした。しかし、暗かったので、バックパックのストラップが車のギアに引っかかっていたのが見えなかった。

 えらく荷物が重くなっているな、なんで、外へ出ないんだと思って、よく見てみると、、ストラップがギアに引っかかっている。う、こいつ、俺が車から降りられないように、わざとギアに引っかけたんじゃ、ないだろうな。

 体は、もう外に出ている。ストラップを外そうとして、もう一度車内に入ったところを攻撃されては、かなわない。銃だって出てくる可能性があるかもしれない。

 そう考えると、とにかく引っ張れとなり、思いっきり力任せに引っ張った。当時、私は、旅行の直前まで、航空貨物運搬の仕事をしており、ときには100kgを越す冷凍マグロをカーゴから下ろして整理していたりもしていたので、腕力があったのだ。

 すると、ギアが、やや曲がってしまったように見えた。今度は、ドライバーが慌てはじめた。

 「まってくれ。ギアに引っかかってるんだ。いま、外すから。力を入れないで。Take it easy」

 そして、ようやくストラップが外れた。

 「オッケー。サンキュー。バイバイ」

 私は、ドライバーがハイウェイに戻っていくのを確認して、その場所を離れた。 朝から、変な奴に会っちゃったなぁ。やはり、アメリカは病んでいるのだろうか。

 ヒッチハイクには、本当に用心しなければならない。多くの州でヒッチハイクは法律違反となっている。サンディエゴの語学学校でも、ヒッチハイクだけは絶対にしてくれるなと、最初に注意があったのだが、すっかり、忘れていた。



ワシントンDCでホワイトハウスの警備を憂う


 再び、アムトラックで首都ワシントンDCへ。ここは、鉄道駅とバスの駅が離れており、その間を警官がガイドしてくれた。物取りや強盗が出るので、用心してとのことだった。ここで、数名の日本人旅行者と知り合いになり、行動を共にするようになった。

 ワシントンでは、やはり、ホワイトハウス前を観光した。一般人が、ホワイトハウスの近くを通れるので、大統領のセキュリティは大丈夫なのかと考えたりもした。

スミソニアン博物館には、地下鉄の利用ができて、移動が本当に楽な場所だ。

Travel Guide - Washington, DC








ニューヨークの街は、映画タクシードライバーのイメージそのまま

 さて、いよいよ、グレイハウンドで、ニューヨークへ。やはり私の頭の中には、アメリカ、イコール、ニューヨークのような イメージがあった。バスから摩天楼が見えてくると、乗客から歓声が起こった。 ハーレムの荒涼としたエリアを抜けて、ダウンタウンへ入る。 不思議なのだが、懐かしい感情が沸いてくる。 映画タクシー・ドライバーで見たニューヨークのイメージそのままの風景が再現されている。



New York City Travel Guide








 ニューヨークでは、38丁目のYMCAに宿泊。 安宿だが、セキュリティがしっかりしているし、一階にはカフェもある。向かい側に、安くて美味しい中華のお店があり重宝した。ここで中華弁当を買って、YMCAの部屋で日本人旅行者たちと一緒に話をしながら食べたりして楽しかった。

 ウォール街へ行ったり、セントラル・パークへ行ったり、チャイナタウンへ行ったり、エンパイヤ・ステートビルに上がって、街を俯瞰したり最高だった。

 また、ハーレムにも出向いて、目抜き通りを歩いてみた。本当にアフリカ系アメリカンしかいない。まさに、ブラック・キャピタルである。ここで、記念品として、Tシャツを購入。次回はアポロ劇場のジャム・セッションにギターで参加してみたいなぁ。



ロサンゼルスの衝撃的ホームレス・ストリート

 最後に、三泊四日で、アムトラックを利用して、ロサンゼルスへ。 アムトラックも、一貫してエアコンが故障しており、冬なのに冷房しており、大変だった。 ニューヨークから帰国すば良いものを、航空運賃をケチったため、ロサンゼルスまで戻ることに。

 ロサンゼルスは、ユニオン駅から少し離れた場所の道路両脇に、ホームレスの寝床が100メートルもあり、衝撃的だった。 ロサンゼルスにも影の部分はある。

 また、ハリウッドでは、ユニバーサル・スタジオ観光したが、その安っぽさに感動は無かった。 小学生だったら、楽しめたと思うのだが。

Los Angeles Travel Guide





 




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